寺町通りより奥まったところにあり、聖福寺の裏手にひっそりと伽藍を構えている聖福寺の塔頭寺院です。
きれいに整えられた石庭があるお寺で、博多灯明ウォッチングの時は無数の灯明がともされてロウソクの明かりできれいに整えられた石庭がほのかなオレンジ色に照らされます。寺院の片隅には母子像も祀られています。
節信院は福岡藩の倒幕派の中心的な立場にあった加藤司書(のりしげ)公の菩提寺でもあります。
加藤司書徳成公は、福岡藩の家老職2800石の要職にあった勤王家でした。
江戸時代末期、長州藩は元治元年(1864年)6月の池田屋事件、同年7月の禁門の変(蛤御門の戦い)にて敗退。その後、幕府は長州藩を討つために、広島に各藩の藩兵を参集しました。
参集に於いて、福岡藩からは加藤司書が参集されました。その時の参集には薩摩藩の西郷吉之助(西郷隆盛)もいました。
福岡藩主・黒田長溥は『外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし』という考えのもと、加藤司書に建白書を持たせ幕府に提出。薩摩と共に長州の恭順を条件に解兵を実現させています。
加藤司書は福岡藩の倒幕派の中心的な立場の人物で、福岡の血の気の多い急進派を抑えながら同じ勤王派の黒田播磨と連名で建白書を藩主・黒田長溥に提出します。しかし、黒田長溥は倒幕派に考えを改めることは出来ず、薩摩藩とは反対の途を歩むこととなります。
反対の道を進んだ福岡藩は、慶応元年(1865年)『乙丑(いっちゅう)の獄』と呼ばれる勤王派の弾圧を行います。
乙丑の獄では、明治維新で活躍するはずだった140数名もの人達が断罪・流刑されました。
加藤司書も藩主・黒田長溥によって切腹を命じられ、「君がためつくす赤心(まごころ)今よりは尚いやまさる武士の一念」の辞世の句を残し切腹しました。享年36歳。
この乙丑の獄と共に、福岡藩は「維新」という時代の表舞台から姿を消すことになります。明治維新が起こるわずか2年前の事でした。
切腹した加藤司書の亡骸は、菩提寺であるここ節信院に手厚く葬られています。